名古屋市守山区のご依頼主様宅にお伺いさせて頂きました。
写真集や写楽、イラストレーションなど買取させて頂きました。
ご依頼主様のお宅はエレベーター無しの5階だったのですが、
大変だろうとご依頼主様手が手伝って運び出しをして頂いて大変助かりました。
この度は、ありがとうございました。
金曜日, 1月 31st, 2014 | Permalink
名古屋市守山区のご依頼主様宅にお伺いさせて頂きました。
写真集や写楽、イラストレーションなど買取させて頂きました。
ご依頼主様のお宅はエレベーター無しの5階だったのですが、
大変だろうとご依頼主様手が手伝って運び出しをして頂いて大変助かりました。
この度は、ありがとうございました。
月曜日, 1月 27th, 2014 | Permalink
アメリカのワシントン州のアバディーンという街で新たな祝日が出来たそうです。
アバディーン出身のロックスター、カート・コバーンの生まれた日である2/20が街の記念日に制定されたのです。
カート・コバーンとは、90年代のアメリカを一世風靡したグランジ・バンド『ニルヴァーナ』のギター件ボーカリストであります。
「アバディーン市民は、カート・コバーンが育ち、彼の芸術的業績によって国際的に知られるようになった我々のコミュニティへの誇りを持つ」と市宣言には文言されているそうです。
(rockin’on Ro69より)
ロックの歴史には数々のスターがいます。
挙げだしたらキリがありませんが、
その中でも、ロックスターは決まって27歳で死ぬという都市伝説のようなものがあります。
俗に『The 27 Club』と呼ばれるものです。
ローリング・ストーンズの初期リーダーであった、ブライアン・ジョーンズ。
天才ギタリストであり、ロック・ギタリストの開拓者、ジミ・ヘンドリクス。
圧倒的な歌唱力と独特の歌声を持つ女性ロックシンガーの代表格、ジャニス・ジョプリン。
ドアーズのボーカリストであり、60年代のセックス・シンボルであり、詩人でもある、ジム・モリソン。
そして、純粋で孤独な世界観を持った最後のロックスター、カート・コバーン。
元々はこの五人を指していた言葉でありますが、
そのほかにも27歳で亡くなっているスターはたくさんおり、それら全てを指すようになりました。
カート・コバーンはそれほど有名であり、ロックの一つのアイコンにもなっております。
しかし、カートが自殺まで追い込まれた原因の一つとして、
人々が思う自分(スター)と、本当の自分(ロック好きの青年)とのギャップがあったといわれております。
元々カートは内気でシャイな性格で、スターとして崇められることは苦手だったといわれています。
となると、このように街の記念日になるということは、天国の彼にとってはあまり嬉しいことではないかもしれません・・・
しかし、僕は単純に、ロックが一つの文化として国に溶け込んでいるというのは羨ましいことだと思ってしまいました。
カート・コバーンがやっていたバンド『ニルヴァーナ』の音楽は、
狂暴に見えるが本当は純粋・・・なんだと僕は思っています。
(世間の意見は違うかもしれませんが)
また、カート・コバーンはロック史上一番の男前だと思います。
現代のサブカル用語でいうと、所謂「闇落ち」だったり「中二病」というようなキーワードがピッタリあってしまうような気がしますが、僕はまるで違うと思います。
やはり人は自分の中でカテゴライズしたがりますから、ニルヴァーナをそういったイメージで捉えている人は多いでしょう。
そういう言葉で括るには少々狂暴過ぎます。
そういうイメージを抜きにしても、誰にも負けないようなカッコいい音があるからです。
やはり、日本ではロックという音楽は馴染みの薄いものですし、
ロックが音楽シーンのメインになったこともないでしょう。
時代はアイドル全盛時代でありますし、バンドで演奏しなくても、機械でそれそっくりにも作れる時代です。
そんなご時勢に、思春期にロックを聞いてガツンとやられてしまった少年少女は、カート・コバーンのような純粋で孤独な存在感に親近感を覚えることでしょう。
彼は従来のロックミュージシャンのように、派手な衣装のようなものは着ませんでした。
胸まで開けたタイトな柄シャツに、パッツパツの革パン、キラキラのアクセサリーに、上げ底ブーツ・・・といったいわゆるロック野郎のイメージとははるかに違い、
色あせたネルシャツに、ボロボロのカーディガン、裾の破れたジーンズに、履きつぶしたスニーカー・・・といったロックバンドから見たら地味でダサい格好でやっていました。
しかし「それが逆にカッコいい」というような風潮が出来てきて、ファッションの一つにもなりました。
それにより、今まで手の届かないような非現実的であったロックバンド像を、
僕らと変わらない等身大の若者のように思えることが可能になりました。
それも親近感の一つだと思います。
日本のロック好きの少年少女で、カート・コバーンに親近感を覚える人は少なくはないでしょう。
彼はみんなと何ら変わらないロック少年の一人だったのに、いつの間にか(勿論人一倍すごい努力はしたと思いますが)スターになってしまったのです。
そういう姿も憧れの一つでしょう。
しかし、誰しもが憧れる等身大のスターですが、誰しもが彼になることは出来ません。
カート・コバーンとは一見コンプレックスの塊のような人間かもしれませんが、
彼には唯一無二の歌声と、ソングライティング能力の高さ、詩作の才能、絶妙なファッションセンス、俳優としても通用するようなルックス、そのすべてを持っている奇跡の人間だといっても過言ではないでしょう。
彼をモチーフにした映画や、キャラクターは色々あります。
彼の純粋な心や、孤独が、一つのスター像を作り上げてしまったのは皮肉な話です。
しかし、彼以降ロックスターと呼ばれる存在がロック界に現れないのは、
彼の死により、ロックという名のバブルがはじけてしまったからのかもしれません。
月曜日, 1月 20th, 2014 | Permalink
エーブックスタッフの水野です。
アメリカの映画監督ジム・ジャームッシュの最新映画『Only Lovers Left Alive』を見てきました。
ジム・ジャームッシュといえば、今やインディーズ映画界の中ではカリスマ的なポジションに君臨しており、ミスター・ニューヨーク・インディーズ・ムービーといえば彼のことでしょう。
初期はモノクロに、マニアックなミュージシャンを俳優として起用しており、また淡々と風景を切り取ったような独特の撮り方が斬新で、一目で彼の映画と分かる画が特徴でした。
また、ニューヨーク・アンダーグラウンドの音楽界とも密接な関係にあり、音楽ファンの中でも彼のファンは多いです。
僕の中は彼の映画の中では、大学の卒業製作であり、彼の監督デビュー作の『Permanent Vacation』の混沌としており、またContortionとしており一番印象に残っていました。
中期の作品では『Dead Man』が好きです。この映画にはジョニー・デップが出ていますが、彼のファンには決してオススメできる映画ではありません。
ニール・ヤングが映画を見ながらギターで即興演奏して、それがそのままBGMとして使われており最高に渋くてかっこいいです。
近年では、彼独特の暗く寂しげで奇妙で不気味・・・といったイメージから少し変わっていっており、
良くも悪くも彼イコール初期のモノクロ作品といったイメージが抜けず、疎遠になったファンも多いのではないでしょうか。
今回の最新作である『Only Lovers Left Alive』は、
中部地方では、伏見ミリオン座でしかやっておらず、
名古屋からですと次に近いのが三重県の伊勢市まで行かないと見れません。
それも12/20~1/23の約一ヶ月の間に、一日一回しか上映されていません。
何でこんな限られたところでしかやらないのだろう?と不思議に思いました。
まず、ジム・ジャームッシュの新作が吸血鬼映画だと発表されたとき、
その理由がズバリ「吸血鬼映画は金になるから」という彼らしいといえば彼らしくて余計に見る気がそそられました。
近年、『The Twilight』シリーズの大ヒットにより、吸血鬼モノのラブストーリーが人気で、アメリカではティーンたちの間で、首筋に歯形のタトゥーを入れるのが流行ってしまうほどといわれています。
そんな中、ジム・ジャームッシュが「吸血鬼映画は金になるから」と言い放ち、作られた映画ですから、少し挑戦的な言葉にも聞こえました。
あらすじ
吸血鬼でありながら、どんな弦楽器でも弾くことができるミュージシャンとして活動中のアダム(トム・ヒドルストン)。アンダーグラウンドな音楽シーンに身を置いて人間たちと共存しているが、何かと自己破壊的な言動を取る彼らに対して複雑な思いを抱いていた。そんな中、何世紀も恋人として愛し合ってきた同じ吸血鬼のイヴ(ティルダ・スウィントン)が、アダムが暮らすデトロイトへとやって来る。久々の再会を楽しもうとする二人だが、イヴの妹エヴァ(ミア・ワシコウスカ)が現われる。
(Yahoo!映画より)
まず、これほど喉の渇く映画を見たは初めてでした。
映画館で飲み物を注文せずに見たのですが、物語が進むに連れ、喉が渇く渇く。
帰りにコンビニでトマトジュースを買ったのは言うまでもありません。
おそらく、この映画はそういう風に出来ているのだと思います。
まず、血がものすごく美味しそうに描かれており、
今までありそうになかった血液アイスも美味しそう。
こぼれた血が絨毯に染み込んでゆくシーンがあるのですが、それが砂漠に落ちた雫のようで、思わず指をくわえそうでした。
また、映画全体に漂う倦怠感、生きることに飽きた吸血鬼の倦怠感もそうです。
そして、それを表すかのようなアダムが作った曲・・・
半分寝ているかのような朦朧とした意識(これにはデッドマンを彷彿とさせられました)などなど。
すべてが作用しあったその結果、喉が渇くのです。
観客にこう思わせた時点で、この映画は成功したといっても過言ではないでしょう。
吸血鬼も所謂ゴシック風のイメージではなく、カジュアルといいますか、
ちゃんと現代に生きている感じが出ていて良かったです。iPhone持ってますし。
それにしてもティルダ・スウィントンのイヴ役は見事でした。
何よりもまず「吸血鬼って実在したらこういう感じなんだろうな~」と思わせられました。
また”夜”が良かったです。
吸血鬼は太陽に当たると死にますから、夜のシーンしかないのは当然といえば当然ですが、
彼の映画の夜の雰囲気は、どこか孤独で、寂しげで、不気味で、奇妙なのです。
この映画では特にそれが際立っていたように思います。
単純に時間帯の夜ではなく、
もっと色んな意味を含んだ”夜”って感じがして良かったです。
吸血鬼映画の中でもいろいろなテーマがあります。
モンスターとしての吸血鬼、吸血鬼と人間の戦い、吸血鬼と人間の恋愛、人間を殺してしか生きられない吸血鬼の苦しみ・・・などなど。
それらの中でも、この映画は異質でした。
永遠に二人で生きていかなければいけない、吸血鬼同士の恋愛。
吸血鬼は不老不死なのにも関わらず、生きていけない時代。
吸血鬼という要素を除いたとしても成立してしまいそうなのは、
僕らの心が貧しいのだからかもしれません。
とにかく、ジム・ジャームッシュファン、吸血鬼ファン、両方ともが楽しめる映画だったのではないでしょうか。
物凄くロマンチックではありますが、ドラマチックではない。
ほどよく淡々としており、それが何世紀にも渡り生き続ける吸血鬼の心を表しているようにも思えて、良かったです。
そのひっそりとしている感じが吸血鬼であり、
今思えば、上映数が少ないのもひっそりとしていて、何だか面白いなと思えました。
2014年、最初に劇場で見た映画がこの『Only Lovers Left Alive』で良かったです。
月曜日, 1月 13th, 2014 | Permalink
エーブックスタッフの水野です。
音楽や映画のネタが多いので、たまには本のことも書こうと思います。
僕は最近でこそ本はあまり読まなくなりましたが、
高校の頃、国語の先生に僕の書く文章をべた褒めされ、
本を読むことをオススメされたのがきっかけです。
不純な考えですが、とりあえずブックオフでとにかく、これ高校生が読んでいたらやべえなと思われるような本を買いました。
寺山修二や太宰治、町田康などの、今でこそサブカルチャー系文学と括られているようなものです。
その時に読んだものの中で、一番印象に残っているというか、
本能的に一番ヤバいと思った作家が芥川龍之介です。
まず、どうして彼の作品を読もうと思ったかというと、名前と顔がカッコいいからです。
顔は、今改めて見るとカッコいいのかどうかは分かりませんが、もし彼を俳優が演じるのなら伊藤英明が激ヤセすれば、けっこう似そうです。
特に芥川龍之介の『歯車』という晩年に書かれた、中編作品が非常に恐ろしかった印象があります。
僕はその当時からロックが好きで、そのロックを文化として捉えたときに必ず出てくるキーワードとして、ドラッグというものがあります。
そのドラッグ体験を聴覚的に再現したものをサイケデリックロックと呼ぶのですが、
ロック脳だった僕はこの『歯車』という作品はサイケデリック文学だと思っていました。
その後、僕は音楽の方に傾倒していき、次第に小説から離れていきました。
昨年、僕は厄年で、何か不吉な予感が付きまとわれるような年でした。
厄年で、と前置いたのは責任転嫁かもしれませんが、
とにかくあらゆることが上手く行かなかった気がします。
そんな2013年も過ぎ去り、2014年を迎え、
そういうことから脱却したい気持ちを実行に移そうと思い、変化の年にしたいと決めました。
しかし、2014年を迎えた現在も、何かに付きまとわれている気がします。
それは何か暗号めいたものがあり、たびたび僕の前だったり、夢の中で現れます。
一番気になるものを一つ挙げるとするならば、緑区の鳴海駅の向こう側(大高方面)にあるされる謎の立入禁止区域。
そこは別に表立って立入禁止が掲げられているわけではないのですが、何のためか人々の間で暗黙の了解のように立ち入ることを禁じられた場所があるということ。
実際はそんな場所はないのでしょうが、何度も夢の中でその場所を前にします。
そのことを何気なくフェイスブックに書き込むと、今は離れて暮らす父親から「その場所はきっと俺の家じゃないだろうか」との返信が来ました。
勿論、僕は父親がどこに住んでいるのか分からず(それもどうかと思いますが)に、その夢を見ていました。
他にもいろいろあるのですが、あまり書くことが出来ないような内容もあるので省略しますが、そういう暗号的な何かが度重なることで、ふと芥川龍之介の『歯車』を思い出したのです。
本棚の奥から埃のかぶった文庫本を取り出して、数年ぶりに読んでみました。
すると、僕が感じたサイケデリック小説なんてそんなサブカルチャー的なものではない、もっと怖ろしい何かを感じました。
まず話全体に漂う、暗く絶望的且つ狂気的な雰囲気が最高に怖い。
この話を読んでいると、彼はうつ病でおそらく現代でいうパニック障害を持っているのだと思います。
この物語は、何てことのない日常の断片でしかないと思います。
ただその日常から引き起こされる彼の中だけの世界が素晴らしいほどに怖ろしいのです。
この作品には連載当初『夜』という仮タイトルが付けられており、その暗く陰鬱とした雰囲気をシンプルに表しています。
この作品の『歯車』とは何を意味しているのか?
ということを疑問に思ったり、議論したりするのは、面白いことでしょうが、
僕自身としては、これは特に深い意味込めてはいないのだと思いました。
僕は、彼の幻覚として現れる歯車を、この世から自分の魂の居場所を無くす不吉なものの象徴としているのだと思います。
また、歯車で思い起こされるのは時計です。
何か不安に襲われるたびに回りだすその歯車は、死が刻々と近付くのを表しているようにも思えます。
が、僕はもっとシンプルに象徴としての『歯車』の方がどこか謎めいていて、不気味に感じる気がします。
アメリカの映画で『マシニスト』という映画があります。
この映画は不眠症の為、極度に痩せてゆき、やがて精神的に不安定になるというものなのです。
現実から次第に妄想の世界に入り込んでゆく感じがとても巧く撮れており、それも絶望的な感じが何か悪い夢を見ているかのような感覚を髣髴とさせ、素晴らしいです。
その日常と精神世界が一体化しているような描き方が共通しており、その映画を思い出しました。
やはり、映画ですので起承転結があり、最後はどんでん返し的な結末を迎え、ある種救われるところがあるのですが、この『歯車』の方は明確なそれがなく、ただ最後まで陰鬱とした嫌な予感、それこそ彼が最期に残した言葉「ぼんやりとした不安」で終わる感じがより一層怖いです。
また、この小説の最後に綴られる、
「僕はもうこの先を書きつづける力を持っていない。こう云う気もちの中に生きているのは何とも言われない苦痛である」
という文が非常に絶望的であり、この小説『歯車』を終わらすのには最も最適な表現であり、彼自身の人生を終わらせたのに最も説得力のある文章だと思いました。
何だか新年明けて間もないのに暗い記事ですみません・・・
もっと明るい記事を書こうと思います。
月曜日, 1月 6th, 2014 | Permalink
あけましておめでとうございます。
エーブックスタッフの水野です。
今年もよろしくお願いします。
先日、生まれて初めてクラブで年越しをしました。
今までは友人たちと飲みながら年越ししていたのですが、
今回はその友人たちが忙しいということでスケジュールが空いた僕は、
他の友人に連れられてクラブに行くことになったのです。
今まで僕はクラブ特有の体育会系というかお祭り的なテンションが苦手で、
そんなに出入りしていたわけではないのですが、楽しかったです。
club snoozer企画のイベントでDJは田中宗一郎と田中亮太でした。
snoozerはもともと音楽雑誌であり、本屋で見かけたことのある人も多いことでしょう。
元『rockin’on』副編集長の田中宗一郎が創刊当時から編集長を務めた。隔月刊。
隔月刊誌であるという事情もあるが、恒期的に発行される日本の音楽雑誌の中では1、2を争うボリュームを持つ。
寸法の大きい誌面ではサイズの大きい写真と、文章量の多いインタビュー記事が特徴。
編集部の事情により、たびたび発売日が遅れる。
また、毎号ページ数が大きく変わることも特徴。
(ページ数が多い号も少ない号も、定価は変わらない)
基本的に編集長である「田中宗一郎による田中宗一郎の雑誌」というスタンスをとっているため、編集員は時期によって大きく変化する。
また、記事によってそれに沿ったライターを招聘・起用することも多い。
2011年6月発行の8月号(第86号)で“終刊”。(wikipediaより)
snoozerは何となくオシャレなイメージで、少しマニアックで、
田中宗一郎のレビュー文がすごく独特な印象があります。
表紙もファッション雑誌のようで、デザインが凝っていたイメージがあります。
snoozerをはじめ、現在音楽雑誌はどんどん廃刊になっており、
本屋でも音楽雑誌コーナーがかなり縮小されました。
かつてのその位置には現在、音楽人気が下がる一方、反比例するかのように人気が出た韓流系の雑誌コーナーが展開されているところがほとんどです。
雑誌もそうですが、その雑誌で紹介するCDですら今は売れない時代です。
日本ではCDを売るため、特典を付けたり、あの手この手で必死であり、
CDが特典なのか、特典がメインなのか、分からなくなってしまうほどです。
近い将来、CDはアーティストの物販(グッズ)扱いになるだろう、といわれているそうです。
音楽を売る商売は限界であり、今あるのは音楽”も”使った商売なのかとも思います。
それと関係ある話かは分かりませんが、
海外のインディーズバンドの間では、CDよりカセットという媒体が復活してきているそうです。
日本のインディーバンド(特に洋楽よりのバンド)もカセットで自主音源を出したりしています。
その理由は僕には分かりませんが、
音楽界隈の人たちの間では、物を売るという感覚が少し変化してきているのかもしれません。
インターネットが今や市民のものになり、音楽もCDのデータとして扱われるようになり、
店に行って物を手に取らないでも、買い物が出来るという時代に少し飽きが来ているのかもしれません。
また音楽を作る環境も進化していき、どんなに音痴な歌手でも編集でピッチ(音程)を直すことが出来ますし、それもプロに限ったことではなく、素人でも機材とソフトさえ買えば、それは可能です。
またそんなことしなくても、インターネット上で自分のカラオケを配信し、歌手を自称することが出来てしまう世の中です。
音楽でも特にロックというものが反抗的なのは、本能的であり原始的であるからだと思います。
ボーカルが叫んでいたり、ギターの音が歪んでいたり、ドラムは文字通り叩いている姿が反抗的なのは、本能的であり原始的であるからなのです。
ロックとは元々そういう姿勢の文化なのですから、
カセットに録音ボタン一つで、ダイレクトに音を叩き込むという原始的なことに回帰しているのかもしれません。
何もパソコンと睨めっこしてちまちま音楽作るのではなく、
「そこで鳴った音だけがその音楽」という分かりやすさが、カセットにはあるのかもしれません。
かなり話が脱線してしまいました・・・し、着地点も見えません。
とにかく、それほど音楽が売れない時代ですから、音楽雑誌もそれ以上に大変なことでしょう。
でもそんなご時勢でも、大晦日のクラブは人で溢れ返っているのですから不思議です。
といってもやはり常連やその周りの身内がほとんどのようで、(もともとクラブとはそういうところなのかもしれませんが)シンプルに音楽を楽しみにきている人は少なかったのかもしれません。
インターネットの普及により色んなものの入り口が広がり、敷居は低くなっているはずなのに、どこもいまいち窮屈に感じられるのは気のせいか。
難しかったことが簡単に出来るようになったのはいいことですが、
それと同時に簡単で当たり前なことがどんどん難しくなっている気もします。